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易の黄帝内経と中医学に対する影響

 易食研究所 大林恵運

近年来、中国国内では、《周易》と《黄帝内経》の関係についての論争が熱気を浴びていて、意見が大きく二つに分かれているそうだ。

一つの意見として、《周易》が《黄帝内経》に強い影響を与えたという考えがあり、そのおもな理由は、『《周易》の確立が、《黄帝内経》より数百年早く、両書がともに陰陽思想を基礎理論として展開する思惟方法は同じであること』や、『《黄帝内経》は《周易》の「象数」の考え方に基づいて、漢方医学の病理、生理、診療システムを構成した』ということ等である。(*1)

もう一つの意見は、《黄帝内経》と《周易》は無関係であるという考えである。主な理由は、『《周易》が漢方医学の理論の源ではない』、『漢方医学の陰陽理論は《周易》の陰陽理論と違う』、『《黄帝内経》が陰陽と五行の理論を中心に展開されているのに対し、《周易》では五行には触れていない』、『隋、唐代まで、《周易》は漢方医学に影響にならなかった』等である。(*2)

 

論争の起因について

 筆者は、《周易》と《黄帝内経》の関係についての論争は、数千年間続いている、易の起源に関する論争に関わりがある、または、《周易》が易の源であるという認識と密接に関係していると考えている。

 易に関する著作で、今日まででもっとも早い時期の物は《易経》であり、その次は《易傳》である。これは《周易》とも呼ばれている。

 ただし、《周易》をみれば、明らかに易の元とは言えないだろう。《易傳・系辞下》に、「古者包犧氏の天下に王たるや、仰いでは則ち象を天に觀、俯しては則ち法を地に觀、鳥獸の文と地の宜とを觀、近く諸を身に取り、遠く諸を物に取り、是に於て始めて八卦を作り、以て神明のコに通じ、以て萬物の情を類す。」(古者包犧氏之王天下也、仰則觀象於天、俯則觀法於地、觀鳥獸之文、與地之宜、近取諸身、取諸物、於是始作八卦、以通神明之コ、以類萬物之情。)と言う記載がある。この記載のみから結論を出すことは安直すぎるが、八卦は7000年前の包犧氏(伏羲氏のこと)によって作られたと考えることはできよう。また、六十四卦が八卦から進化したという定説と、周易は六十四卦によって展開された物であることから、八卦は周易の元であるといえる。

八卦の起源について、古籍には、様々な記載がある。《尚書・顧命》(周代の書で、漢・孔安国注、唐・孔頴達疏)に「河図、八卦、伏犧が天下に王たるや、龍馬が河を出し、遂に其の文を則って以て八卦を画す。之を河図および典謨をいう」(河圖八卦伏犧王天下龍馬出河遂則其文以畫八卦謂之河圖及典謨)ことが記載されている。(*3)

さらに《前漢書・五行志》に次のような記載がある。「(漢の)劉歆は、虙(伏)羲氏が天を継して王と為すことを以て、河図を授かれのっとって之を画く。是は八卦になり」(劉歆以為虙羲氏繼天而王、受河圖則而畫之、八卦是也)。(*4)

以上の記載やそのほかの多くの資料から、古代の人々は、八卦が河図によって成り立っていると考えていた可能性が高く、前者は、八卦が河図から成り立ったという説の最初の記載ともいわれている。

前述の《易傳・系辞下》には、伏羲氏が八卦を作る際に、河図に則ったことは言及されていないが、《易傳・系辞上》に、「(黄)河に図、洛(水)に書が出て、聖人が之を則る。」(河出洛出書聖人則之)という記載がある。(*5)

そのため、唐の孔穎達は、「もし八卦は河図に則らずば、余りに再び則る所はなになりや。」(若八卦不則河餘復何所則也)と述べている。(*6)

八卦を用いていたのは《周易》だけではなく、史書の記載によれば、連山、帰蔵という易もあり、そのほか、1986年アメリカのロサンゼルス「易経」博物館の出展品より、3200年前の古代ギリシャの陶器に、上部に河図、底部に中国の古代銘文「連山、卦図、中国の暦数、遠い東方にあり」という文字が刻されている。(*7)この陶器は、中国の易文化が、商の末期に、古代ギリシャに伝わっていたことを現代に伝えている。当時、古代ギリシャに伝えられた連山という易は《周易》より遙かに古い易であり、その時代、《周易》はまだ誕生していなかったと考えられる。

さらに、1973年、中国長沙の馬王堆の漢墓から出土した《帛書易》も、周易とは違う易であることがわかった。

河図、八卦は易の起源であると考えられているが、以上の記載は、《周易》を易として扱っていたという結論は成立せず、《周易》はただ、易の中の一つの分枝でしかないことの証明の裏付けになるだろう。

 

 《周易》が《黄帝内経》に影響を与えたとする人たちは、《周易》こそすなわち易という考えを持ち、《黄帝内経》は八卦を使わなくても、陰陽の理論は使用したため、易の影響を受けたと認識している。しかし、上述のように、易の影響を受けたとしても、それが《周易》であったとは限らないのである。これは、《周易》が《黄帝内経》に影響を与えたと考える理論の大きな欠点であると考えられる。

《黄帝内経》が《周易》とは関係ないとする人たちの理由にも問題がある。《黄帝内経》は易と深く関わりがあることは否定できないということである。たとえば、《周易》から影響を受けなかったとしても、易からの影響があることは間違いない。なぜならば、陰陽五行の理論は、易が発想したものであり、《黄帝内経》が陰陽五行を中心に展開した物であるためである。

 ここで、《黄帝内経》の成り立ちについてみてみよう。

 《黄帝内経》に最初に言及した史書は《漢書・芸文志》であり、黄帝内経十八巻と記されているが、具体的な内容は書かれなかった。これ以前の史書からは、《黄帝内経》に関する記録は見つかっていない。

 そのため、多くの研究家は《黄帝内経》は両漢時代に本として完成したと認識している。

 確かに、《漢書・芸文志》の記載によると、《黄帝内経》は西漢時代、既に本としてできていたことが考えられる。しかし、それ以前に記載がないということは、《黄帝内経》ができてないという結論へと結びつけるのは時期尚早であろう。

 まず、《黄帝内経》を理解するために、《難経》という著書がある。《黄帝内経》はあまりに難しく、理解できない部分が多かったため、《難経》は《黄帝内経》の素問、霊枢の旨に質問と答えを設け、疑義を解釈する形で作られた。《難経》の出現で、《黄帝内経》の奥深い養生、治療の理論が普及しはじめたと言える。

 《難経》の著者は中国春秋時代の扁鵲という名医であり、彼の本名は秦越人であった。《史記》の百五巻には扁鵲列伝がある。扁鵲列伝には《難経》の記載はないが、扁鵲の事績をあげたときに使われた医学術語や言葉は、《難経》から引用されたとみられ、また《黄帝内経》からの用語の引用も多いことは事実である。たとえば、「病の陽論を聞けば、その陰を得られ、病の陰論を聞けば、其の陽を得られる」(聞病之陽論得其陰、聞病之陰論得其陽)、「切脈、望色」および陰陽理論などは、《黄帝内経》からとった言葉と考えられる。

 《難経》が史書に記載されたのは隋、唐書の経籍芸文志が最初であり、その著者が秦越人とその弟子であることも認められている。

 《史記》によると、秦越人は春秋時代の人であることがわかる。春秋時代に、《難経》が既にあったのならば、《黄帝内経》はその前に既にあったことは疑う余地はないだろう。

 《周易》の《易伝》は、孔子が作った物であるといわれ、現代の考証では、孔子の弟子が作った可能性が高いという事になっている。たとえば、《易伝》は孔子が作ったとしても、《難経》の著者である秦越人の生きた年代は孔子より百年以上前であるため、《易伝》より先に世に出た事になる。秦越人が生まれる前に、《黄帝内経》は既に存在していたので、秦越人は、《黄帝内経》を自分の弟子たちの理解を深めるために、《難経》を作り出した。その時期、《周易》は未完成であり、その未完成の《周易》が、既に存在していた《黄帝内経》に影響を与える可能性は、ないとしか言えない。

 

黄帝内経と易の関係

 《黄帝内経》は、陰陽、五行の理論を中心にし、漢方医学理論を作り出した。その陰陽、五行の理論は、易とどういう関係があるのかを知ることによって、《黄帝内経》と易の関係が解明できる。

 中華民族の文字は黄帝時代から始まり、その以前には、定型文字あるいは系統化の文字ができていなかった。文字の代用品として、符号、図形等が用いられていた。河図、洛書、八卦もこの符号、図形の類を越えない。

 《易傳・系辞上》に「これ故に、易に太極あり、是れ両儀を生じ、両儀四象を生じ、四象八卦を生じ、八卦吉凶を定め、吉凶大業を生ず。」(是故易有太極、是生両儀、両儀生四象、四象生八卦、八卦吉凶、吉凶生大業)と述べられている。前述の通り、八卦は河図に則って作られたと説明した。河図全体を一つの太極と思えば、奇数と偶数は両儀、すなわち陰陽として区別でき、さらに、一つの奇数と一つの偶数で、四方に配置され、是は四象と考えられ、さらに中央を加え、ここから、八卦を生み出したのだろう。また、《易傳・系辞上》の天地の数も河図によりできたと考えられる。

 史書の記載によると、河図は八卦の元になり、洛書は洪範の元になったとされている。(*8)

 洪範は、《尚書》の一章であり、五行のことについて述べられている。これは、現存の史書のうち五行に関する最古の記録である。

 また、洛書からは、九宮が成り立った。九宮は漢の鄭玄注の《易緯》で初めて言及されたものだが、1977年、安徽省阜陽市の双古堆の西漢の古墳から出土した「太乙九宮占盤」の占盤の九宮配列が洛書と一致したことから、西漢の時代には、洛書の図形はすでに普及しており、占いにも用いられていたと考えられる。

 また、漢の戴徳氏の著書《大戴礼記・明堂編》にも、「明堂という者、古に是を有してなり。凡そ九室、二九四、七五三、六一八」という記載がある。この記載から、明堂九室の制度が漢以前にすでに存在し、九室の数の配列も洛書と一致していたことがわかる。

 さらに周代の文献である《周礼・考工記》には、「明堂は五室あり」と記されており、ここから九室は五行から制定されたものと考えられる。東南西北と中央の五方位をもって五方位とするが、それを拡張して、北東、南東、北西、南西の四隅も加えて、明堂は九室になった。河図からは五行、洛書からは九室の痕跡がはっきり見えるだろう。

 《黄帝内経・霊枢》には「九宮八風第七十七」があり、その九宮の配置は洛書とも一致している。

以上のことを分析して、九宮の成り立った年代を考えると、漢の時代ではなく、周の時代であると考えられる。そして、《黄帝内経・霊枢》が九宮を導入することに問題はないと判断できる。

上述の流れからみて、筆者は、陰陽から易が始まり、河図、洛書が生み出されたのではないかと考えている。そして、河図、洛書が別々に発展していき、河図は八卦を生み出し、八卦から、連山、帰蔵、周易などが誕生する一方で、それと平行して、洛書は五行を形成し、世に広がったのではないだろうか。

 《周易》は河図から発展したものであり、後に、《易伝》が加わることにより、占いから哲学に変わり、この哲学が易の文化として広がり、定着した。《黄帝内経》は、《易経》と並行的に発展していき、陰陽、五行の理論を取り込み、独特の漢方医学の理論を作り出した。もちろん、この理論の源は易の陰陽思想と五行思想である。ただし、《周易》の理論と思想ではない。

陰陽の認識観は、易の根本的な認識として使われており、《周易》も《黄帝内経》もこの認識観に基づいて、各自のシステムを作り出した。そのため、両書には全く繋がりがないとは言えず、逆に、同じの親から生まれたと言え、まさに医は周易と同源であり、易は医の源と考えられる。

漢方医学は、このような流れで八卦とは並列的に進化した《黄帝内経》が、時代が進んでいく内に、多くの漢方医の努力により、その陰陽五行の理論の上に、さらに八卦の理論を導入し、医易会通(もちろん、この場合の易は周易である)の状態に進化した。これが中国の漢方医学の流れである。

 

医易熱への期待

 最近の《周易》と《黄帝内経》の関係に関する論争は、中国での「医易熱」の一部である。20世紀になると、西洋医学の伝来のため、漢方医学は大きな打撃を受け、さらに、極端思想により排斥、偏見に遭い、存亡の危機に瀕されるという大変悲しい時期があった。80年代に、易学の再興により、漢方医学に対する再認識も提起され、さらに、西洋医学の発展に限界が感じられるようになると、その限界の解決、新たな発展を求めるため、中国の漢方医学に世界が着目するようになり、新たな発見がいくつもされた。一部の専門家は、「21世紀は漢方医学の世紀である」、「漢方医学の現代化は医学発展の正道であり、しかも最終的に科学技術システムの改造――科学革命を引き起こす。」と予言するほどであった。(*9)

 こういった状態に直面して、漢方医学の正しい流れを世界に伝え、一時期停滞した漢方医学の新たな発展を求め、理論上にもさらに一歩進めたい、ということが、今回の論争の目的であると筆者は思う。

 漢方医学は、中国の伝統医学であり、中国の伝統文化と思想に浸透している。数千年間、漢方医学は様々な困難を乗り越え、今日まで多くの人々に愛用されたことは、漢方医学の存在を望む者が後を絶たないことが証明されている。また、東洋哲学の思想が漢方医学に強い生命力を与えたことも漢方医学が残っている重要な理由の一つだと私は考えている。

漢方医学は、病気の予防、診、治療、体の養生、さらには、食物、薬物まで、すべて天地の大宇宙、人体の小宇宙である天地人三才について総合的に考えた上で、判断し、解決策を提案する。人と天地、人自身、人と周辺の環境、食物や薬物と環境や人間の関係がすでに一つの統一宇宙になり、その中にすべての変化を取り込み、そして全体的なバランスがとれるように、医療を行う。漢方医学の特徴は決して「頭痛になったので頭を治療し、足が痛いので足を治す」だけではないということである。たとえば、頭痛がある場合、その原因を突き止め、身体全体との関係や陰陽バランスなどを考えた上で、治療方案を出す。つまり、病巣だけに対応するのではない。このように、全体のバランスを考えて行われるその治療の過程に、陰陽のバランスを調整する易学の哲理が貫通されている。このため、唐代の医聖孫思は「易を知らない者は、以て太医をいうこと足らず」と述べている。(不知易者、不足以言太医)(*10)

このような考え方は、西洋医学(西洋人体生命科学)の、物質型の病巣を集中して治療して、体全体のバランスを重視しない思惟方法と大きな差があり、西洋医学で未だに解決されていない多くの課題は、漢方医学が新たな解決道を開くことが多々ある。

西洋医学の角度からみると、漢方医学はすでに医学の範囲を超えたと言わざるを得ない。現代医学と比べれば、漢方医学は、非科学的な部分があることは明らかである。たとえば、「左肝右肺」説である。解剖学では、胸部の左右に肺があり、肝臓は右にあるが、差が歴然である。しかし、こういう部分に漢方医学から解釈あるいは治療の場合、間違いなく正しいことが証明された。

漢方医学の養生学の中では、食物をもっとも重要視し、さらに食物の色、味などにより、五色、五味、五性などに分かれ、人間のそれぞれの経脈に作用すると認識している。それも西洋医学から考えると不思議と思われる。西洋医学は食物の栄養成分を重視し、体の病気は色、味とは関係ないと考えていた。しかし、現代の化学分析でやっと解明され、食物の色、味には、特定の化学物質が含まれており、それらは人体に対して効果があることがわかった。これは中国の薬食同源の発想が正しいことの科学的な裏付けである。また、十二経脈や気の説など、これらはすべて漢方医学が易学思想と深く結んでできた実といえる。

筆者は近年来食物と病気に関する研究をずっと行っている。中国最初の薬物書《神農本草経》と医学書《黄帝内経》には、食物の治療効果や、食物が病気を引き起こす等のことが記されている。最近のアメリカの食物に関する研究の結果より、筆者はさらに漢方医学の天地人を合一する医易の考え方の凄さに感銘を受けた。

1975年から2年間にわたって、アメリカの栄養問題特別委員会は、アメリカ人の成人病の原因を調査し、その結果野菜の摂取不足、動物タンパク質、脂肪、砂糖の摂取過剰が起こした栄養のアンバランスが原因であることを突き止めた。特にカロチンに代表されるビタミンやミネラルを多く含有している黄緑色野菜の摂取不足が、成人病が急増した原因であることを明らかにした。

この中で、もっとも注目すべきは、カロチンの一種であるβカロチンである。

疫病学の研究によると、βカロチンあるいはビタミンAが欠乏している人は肺ガンをもっとも患いやすい。そのはか、子宮ガン、食道ガン、胃ガンなどの発生率も高いことがわかっている。逆に、βカロチンの含有量が高い食物であるニンジン、サツマイモ、カボチャを常食した人は、以上のガン、特に肺ガンの発生率が非常に低いこともわかっている。そして、動物の実験では、人工的に合成したβカロチンの投与でガンを退治できたという結果も得られている。

そこで、医学専門家は、人工的に合成したβカロチンをガン患者に投与し、ガンを退治しようと試みた。しかし、ここで、問題が現れた。肺ガンの患者にβカロチンの薬剤を投与した後、肺ガンは消えたが、新たに食道ガンが発生したのである。このような例が繰り返し発生した。結局、βカロチンの薬剤の投与がガンを発生させていたのだとわかった。

漢方医学では、食物の中のβカロチンは、単一で人体に作用するではなく、食物に含まれているほかの栄養素と共同で作用すると考えている。漢方医が、食物の栄養素の作用の関係を把握し、それを人体に対して適切に処方することで、人体のバランスを保つことができ、免疫力を増やさせ、ガンに予防、対抗する力を発揮できる。漢方医学の角度からみれば、食物のそれぞれの薬味、薬性、色などの属性が総合的に人間の体に作用し、体全体の陰陽のバランスを調節する。薬剤のβカロチンは、大量に投入されたため、ガンの部分に対して作用したが、それと同時にほかの健康の組織にも強力に作用してしまい傷を付け、突然変異を引き起こし、新しいガンを生成してしまった。それは、薬剤の投入が、人体の全体のバランスを考えていなかったためである。しかし、漢方医学では、漢方医による摂取量の制限もあるため、バランスがとれ、副作用の可能性が減る。西洋医学の治療は、人間の特定部位あるいは個別の器官に対して行われ、人間は一つの統一体であることについての認識が少ない。このように、全体と個別または一般と特殊という思想の違いが、漢方医学と西洋医学の大きな差である。

西洋医学の各分野は、それぞれ独立し、病気の診断や治療には、精密検査の上、得られたデータに基づいて判断する。また、薬物もほとんど単一の効果を持ち、対応する病気には効果が速いが、人体全体に対する副作用もあることは否定できない。実際、投薬後に、体調が崩れ、免疫力を低下するなどの問題が絶えず起きている。

漢方医学は、人体の陰陽バランスを保つことを最も重要視し、食物でも薬物でも、摂取する際には、まず、人体のバランスを保つことができるかどうかを考える。つまり、天地人が合一である認識から、予防、治療、養生を総合的に行い、互いの限界を超えないように工夫する。この考え方は、近年来西洋医学も持つようになっている。「免疫療法」、「代替療法」などはその一環と考えられる。

東洋、西洋医学思想が結びつくことで、21世紀、医学は新たな革命を起こすことであろう。

 

 

 

(*1)張其成『易学与中医』、楊力『周易与中医学』、常秉義『周易与中医』など

(*2)顧植木『中医学的起源与医源于易論』、廖育群『岐黄医道』、李申『周易与中医関係略論』など

(*3)文淵閣《四庫全書》経部書類の漢・孔安国撰《尚書注疏》序より

(*4)文淵閣《四庫全書》史部正史類の漢・班固撰《前漢書・五行志》より

(*5)文淵閣《四庫全書》経部易類の魏・王弼、晉・韓康伯註、唐・孔穎達疏《周易正義》の《易傳・系辞上》より

(*6)文淵閣《四庫全書》経部書類の漢・孔安国撰、唐の孔穎達疏の《尚書注疏》十七巻顧命より

(*7)欧陽紅『易図新辯・読易導論』

(*8)文淵閣《四庫全書》史部正史類の班固撰《漢書・五行志》、陳寿撰《三国志・魏志・高貴郷公傳》、編年類の沈約撰《竹書紀年》、経部の五経総義類の陳耀文撰の《経典稽義》の《礼・含文嘉》引用文などより

(*9)楊力「周易与中医学」、銭学森「論人体科学」より

(*10)文淵閣《四庫全書》子部医家類の孫思撰の《備急千金要方》より

 

上述の論文は2004年4月24日に北京で開催された、「第四回国際易学と現代文明学術討論会」の医学分科会で発表されました。

 

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