梅花易占とは
ここで、紹介するのは、今まで日本にあまり知られていない梅花易占法である。
周易占いは、伝説上では、伏羲氏が先天八卦を作り、周文王が後天八卦を作った。その記載は、《洪範》からはじめ、《春秋》内外伝にも散在している。以後、歴代の易学家が数しれない著作を出し、義理派と象数派にわかれ、今日まで、研究と応用を続けている。
中国の大陸の、秦の始皇帝による七国の統一、楚漢戦争、西漢王朝の建立、王莽の簒位、東漢光武帝の復興を経て、筮竹により八卦を出す占い方法は、東漢朝に
消えてしまった。その消えたわけは不明である。推測だが、東漢朝の著名な易学家京房が発明した“納甲法(火珠林)”と関係があるのではないだろうか。
今、中国大陸だけではなく、台湾や香港では、今日まで周易八卦の占い方法は、銅銭を投げ、そのコインの正反面の形により爻を成し、
八卦を出す方法を使っている。その他、もうひとつ方法があり、それが、梅花易占である。
梅花易占の創始者は、中国北宋時代の有名な易学家邵雍である。
邵雍は紀元1011年に生まれ、1077年に歿す。字は尭夫、号は康節。祖籍は範陽で、父親に従って、衡章、河南共城を転々とし、最後は、河南省に定居した。共城にいる時、北海の李之才に師事し、《河図》、《洛書》、《伏羲八卦》、
《六十四卦図象》等を身に付けている。また、それを基礎として、自分の研究、
探求により、象数学説の理論を作り、時間によって、卦を出す計算模式を創った。
結局、その占い法はいくら試みても間違いがないため、高い名声を得、広く
人気を博した。
邵雍の主な著作は、《皇極経世》、《伊川繋壌集》、《漁樵問答》等である。伝説によれば、梅花易占は、彼が中国で作った最も古い、周易による象、数、理、占を利用した占い法である。梅花易占は、彼の最も有名な占いの例の“観梅占”から名を得、後世に“観梅数”とも呼ばれる。
清代の哲学家銭曽に、“宋に易を談する諸家に、占を崇する者が皆な康節流
だ。”と評される。又、理学象数学派とも称される。
邵雍は一代の易学師匠として、当時の名人、例えば、史学家の司馬光、呂公奢、宰相富弼等に尊敬される。朝廷から数回官爵を授与されるが、いずれも断った。彼は、易の研究に没頭し、“寒不炉、暑不扇、夜不就席者数年。”(数年中、冬は火にあたらず、夏は扇をあおがず、夜は床につかず)になったこともある。
今日、邵雍の故郷河北省豕県の間に、彼の梅花易占の様様な神奇的な伝説が盛んに流れている。
観梅数の伝説
ある辰年の十二月十七日(旧暦)の申時、(日本時間夕方16〜18時)、邵康節は梅の花を見に行った所、二羽の雀が一本の枝を争って、高所から落ちる所を見て、怪しいと思って、すぐに占いをした。其の雀が梅枝を争う時間により、一つの八卦を出した。それは《沢火革》であった。先生は其の卦を見て、判断して
いわく、
「翌日の夕方に、ある少女が梅園の梅花の枝を折ろうとしたため、庭番に追われ、びっくりし転んで、右股にけがをする」と。
翌日、邵雍の言うとおりに事件が起きた。
このような面白い占例、例えば、牡丹占、借物占、西林寺額等は他にもたくさんある。
|