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周 易 昔 話
ウサギが病気を治す?
易学の研究は二派六宗に分けられている。二派というのは、即ち義理派と象数派である。
第一話は、出した卦の変爻の爻辞(易経に定められた)によって卦の分析をした例である。
これは義理派の一種である。
今回は火珠林(六宗の中の一宗)の納甲法により、卦を分析する話である。
中国の晋代(紀元265年〜419年)に郭璞(紀元276年〜324年)という有名な学者がいた。彼は「楚辞注」、「爾雅注」、「山海経注」等の著者である。詩賦にも優れていた。
また、彼は易占の奇人ともいわれていた。「晋書・郭璞傳」に彼の十数件の占例を紹介されている。
彼自身も易占に対する見解、体験等について、「洞林」という著書を残している。
これは易の応用に対し大変重要なものである。此処に、そのうちから一つの例を紹介しよう。
郭璞のある同僚、中郎参軍の景氏は数年間にずっと奇病に病み、なかなか治らなかった。
六月のある癸酉の日に、彼は郭氏に頼み、病症について占ってもらった。
郭氏は「地沢臨」という静卦(変爻がない卦)を出した。
卦を見ると、郭氏は「卯が世、身と並び、兎を食うと癒す。天医は卯にある故になり。」
といった。
火珠林の「地沢臨」卦は下のように排列と配置されている。
子孫酉金、、
妻財亥水、、応
兄弟丑土、、
兄弟丑土、、
官鬼卯木、 世・身
父母巳火、
卦を見ると、自分を代表する「世」は官鬼卯木に臨し、卦身も同じ爻に臨している。
世と身がともに「日破」であり、また、「月建」が墓でもある。
これは大凶の兆しである。
ただ、六月は天医星が卯の方位にあり、卯は十二干支のなかで兎をしめすので、
兎肉を食べれば、病気を治せることがわかった。
また、卯の木が墓(病気を表す)を破ることは出来ることもわかった。
そこで、景氏の弟が郭氏の言うとおりに、一匹の兎を捕まえ、
景氏に食べさせたところ、病気はたちまち治った。
用語解説:
「、、」のは陰爻を表し、「、」のは陽爻を表す。
「日破」というのは、卦の中で世爻の支が日の支に相対(六沖)し、
日の支が世爻の支を破ることを指す。
「月建」というのは、この月の支を指す。
「入墓」というのは、卦の中の世爻の支がちょうどこの月の支の墓に当たること。
例えば、水の墓は辰、木の墓は未、火の墓は戌、金の墓は丑に配属されている。
人が墓に入ることは不吉である。故に大凶という。
重病人の回復は可能か
晋代の
郭璞の知り合いで叔宝という人が重い風邪を引いて、危篤の状態に陥っていた。
郭璞はお見舞いに行くとき、心配して、病状について占って、
二爻が変じている「天山遯」卦を得、変卦は「天風詬」卦であった。
天山遯
父母戌土、
兄弟申金、 応
官鬼午火、
兄弟申金、
官鬼午火、、×世
父母辰土、、
卦を見ると、郭璞は「帰蒿丘、誰能救之、坤上牛。」と言った。
この意味は、叔宝の病気は危険であり、墓に入る可能性がある。
彼を救えるのは南西側の牛しかない。
なぜ郭氏がそうう判断したのか。
まず、「天山遯」卦は上の卦が乾であり、下の卦が艮である。
乾は金を象徴し、叔宝を象徴する。
艮は山を象徴している。山は金の埋蔵地である。
また、その時は五月であり、五行の規則では、五月に土が旺盛して、金は死んでいる。
金(叔宝)が埋蔵されることは大凶である。
その他、火珠林法から見ると、病状を占う時、最も忌諱なのは官鬼爻に世がつくことである。
世は叔宝を代表している。しかも、一番いやな官鬼爻についた。
それだけではなく、この官鬼午火の二爻が動じて、子孫亥水に化し、
ふり戻って官鬼午火を剋すことになった。
叔宝を代表する世は剋され、不吉なのである。
故に、郭氏は「帰蒿丘」にいった。
ただ、郭氏のいいところは、救助の糸口を見つけ、教えたことだろう。
叔宝の危険は、子孫亥水が官鬼の午火を剋すことである。
もし、亥水を制せば、官鬼の危険はなくなるではないか。
亥水を制するのは、坤しかない。
坤は土を象徴し、また、南西、牛も象徴している。
卦の中に、変卦の「天風詬」卦に丑土がある。
但し、この丑土爻は全然動かないため、役に立たない。
そこで、郭氏は外応の方法を採用し、牛がいれば、叔宝の病気は治ると判断した。
その晩、ちょうどある人は南西から牛を連れて叔宝の家前を通過した。
叔宝の家族はその人を説得して、牛と一晩を共にさせた。
翌日、叔宝の病気は快復した。
孔子の戦争予言
中国の春秋時代に、魯国は越国ともめており、
魯国は越国を討伐することを決めた。
このことを聞き、孔子の弟子の子貢は吉凶について占った。
子貢は「鼎」卦を得た。また、第四爻を動かし、その変卦は「蠱」卦になった。
鼎卦の第四爻の爻辞は「鼎折足、覆公{食束}、其形渥、凶。」である。
鼎は大昔の食器であり、底に三つの足が付いていた。
もし一本足が折れれば、鼎は倒れるしかない。
鼎が倒れれば、美味しい食べ物がこぼれ、あちこちが汚れる。
これは良いことではなく、故に凶である。
子貢は以上の爻辞を見て、慌てて孔子に
「越国を討伐するには、兵士達が移動しなければならない。
今の卦を見ると、足が折れ、歩けないではないか。
わが国が越国を討伐することは危険であり、止めた方がよいだろう。」
しかし、孔子が卦を見て、反対の意見を言った。
「越国の人々はほとんど水上に暮らししているおり、移動はいつも舟を頼っている。
舟を使えば、足は苦労しないだろう。
だから、我が魯国に対して、この爻辞は吉である。
越国を討伐すれば、わが国が必ず大勝に果たす。」
結局、魯国は勝利を手に入れた。
子貢と孔子はともに同じ爻辞によって卦を解析した。
ただ、子貢は爻辞の言葉しか考えなかった。むりにこじつけて当てはめた。
孔子は、爻辞の内容と現実の事を結んで解析したので、当たるのは当然である。
この卦について、卦の象意から見ると、
鼎卦の内卦は「巽」であり、魯国を象徴し、また、「巽」が、木も象徴している。
鼎卦の外卦は「離」であり、越国を象徴し、また、「離}が、火も象徴している。
もともとは、木が火を生むため、魯国は不利になっていた。
しかし、水上戦のおかけで、情勢が変わった。
まず、「巽」は木で水上に浮かぶのは自然であり、また、水が木を生む。
このため、魯は不利から有利に転じていた。
逆に、外卦の「離」は動じている為、「艮」に変じた。
「艮」は土であり、「離」が「艮」を変じるため、自身のエネルギーを漏らした。
しかも、「艮」の土が「巽」の木に制される。
こういった要素も、魯の勝因であった。
関羽の死期
三国時代のある時期、呉国は蜀国と仲が悪くなり、
呉国の大将軍呂蒙と蜀国の名将関羽は、
各自の兵士を率いて、襄陽、荊州の周辺にて戦っていた。
ある日、関羽が呂蒙の罠に墜ち、麦城へ敗走した。
呉国の王の孫権がこの情報を得、関羽の吉凶について大臣の虞翻に占いをさせた。
虞翻は当時の大変有名な易師であり、すぐ占いをした。
そして、「水沢節」卦を得、動爻は第五爻で、変卦は「地沢臨」卦になった。
周易の「水沢節」卦の第五爻には、“九五,甘節,吉,往有尚。”という爻辞がある。
この意味は、甘い物を食べる人が多い、吉である。ということだ。
しかし、虞翻は“二日以内に、関羽の首を落ちる”と予言した。
この根拠の一つは、五爻の陽爻が変化し、陰爻になり、真ん中で中断される。
五爻は首の象徴である為、この変化の意味は、体と首と離れることである。
二つ目の根拠は、節卦は泰卦から変化したためである。
六十四卦のなかに、陽爻が三本の卦は、二十個有り、すべて泰卦から変化したものである。
この節卦は、泰卦の第三爻(陽爻)から二本の上に昇り、第五爻になった。
泰卦の下卦(内卦ともいう)は乾であり、元々首の象徴である。
節卦の上卦(外卦ともいう)は坎であり、危険、陷落を象徴している。
このため、虞翻は卦象と卦理を合わせ、爻辞の意味を無視し、こういう結論に達した。
勿論、最後は、虞翻の言ったとおりになった。
見た目にだまされるな
周易八卦の判断は、単に「易経」の卦辞だけによるのではいけない。
必ず得た卦を全面的に分析した上で結論を出さなければならない。
これは周易の吉凶が当たるか当たらないかの分水嶺である。
中国南北朝時代の北斉朝(紀元550年〜577年)に、
易占が大変上手な者で趙輔和という人がいた。
ある日、彼は友人を訪ねにいった。
そのとき、ちょうど別の人が其の友人に頼んで、父親の病状を占ってもらっていた。
友人は「泰卦」は得、其の卦辞には
“小往大来,吉亨。”ということばがあった。
そうすると、友人はその人に“安心して下さい、この卦は大吉です。
貴方の父親の病気はすぐ治るでしょう。”と言った。
その人は喜んで帰宅した。
しかし、趙輔和が友人の判断を疑問にし、“この卦は大凶ではないか?”と言った。
友人が驚いてすぐ訳を聞くと、趙輔和はこう説明した。
泰卦は上の卦が坤であり、下の卦は乾である。
坤は土に、乾は父にそれぞれ象徴している。
この卦の形は、その人の父親が死んで、土のなかに葬られるだろうというものであり、
決して吉ではない。
数日後、その人の父親は本当になくなっだ。
なぜ、同じ卦なのに、結論は全く違ってしまうのだろうか。
これは、医者が患者の病気を診察することと同じである。
腕の良い医者は病気の判断が正しくて早い。
医術の精通しない医者ではミスばかりをして当たり前である。
趙の予測が当たったのは、
彼は周易を精通し、卦を分析するとき、単に爻辞を見て、吉凶を判断するではなく、
卦象と占われた事とを結んで推論したからである。
その両方を密接させなければ、はじめはほんのわずかな差しかないのに、
最終的には大きな相違になるだろう。
占い師の差というものである。
科挙の出世
功名になれるかどうかという事は、古代中国人の人生の中でも大変重要な一歩であった。
彼らは科挙で、優秀な成績を取り、及第すれば、出世ができ、役人になれると考えていた。
また、それは官途への唯一の進路であるとも考えていた。
このため、科挙の際、皆、八卦で自分の科挙の合否についての吉凶を予測した。
そうすれば、及第しても落第しても、占いによって、自分を慰める事ができた。
清代の乾隆朝に紀暁嵐という優れた学者が居た。
ある年、三年毎に一回実施される各省の科挙があり、紀氏も入試を受けるつもりだった。
科挙に行く前、彼の先生が試験の合否について不安だったので、八卦で占った。
その時に得た卦は、沢水困で、第三爻が動いて、変卦が沢風大過であった。
「易経」の沢水困卦の第三爻の爻辞は「困於石、据於疾(<--くさかんむりが欠けている)藜。入於其宮、不見其妻、凶。」
其の意味は「石に苦しみ、草に近づく。その宮殿に入れば妻をみることはないだろう。凶である。」
以上の結果を見て、先生はますます不安になり、紀氏に今回の科挙試験が大変不利であると告げた。
たが、紀暁嵐はあえて先生の意見に同意しなかった。彼は先生にこう言った。
「この卦は悪くないです。僕はまだ結婚もしていません。妻を見えないことは当たりまえです。
又、妻は配偶者であり、無偶といったら、誰も僕と競争できないでしょう。これは、僕が今度の試験で一位になる前兆でしょう。
その『困於石』というのは、多分二番目の方が名字の中に石の字か石偏の字かあるということではないでしょうか。」
その後、試験結果が発表され、本当に紀暁嵐は最優秀成績を収めた。
二番目の者は石という人であった。
紀暁嵐は後に《四庫全書》の総編纂になった。
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