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薬膳の歴史と概念について

 大林恵運

 

 薬膳という言葉を、インターネットのヤフーで検索すると、百万件以上発見することができると思います。また、中国のサイトで検索すれば、八百万件以上に登ります。

 検索を見ると、薬膳の言語は中国古来の言葉とは書かれていますが、具体的な由来は曖昧になっています。薬膳という言葉が世界に広がっていますが、この言葉はいつごろ形成して、その本当の意味は何なのでしょうか。

 230年前に、清代の乾隆帝の命令で、十数年かけて編成された百科全書である「四庫全書」で、私は、薬膳という言葉を検索しました。

 「四庫全書」は7万9千巻以上あり、総文字数は7億以上あります。記録されている歴史期間は中国遠古時代から清代までのおよそ5000年間になっています。しかし、この膨大な歴史書から薬膳という言葉はわずか131件しか見つかりませんでした。

 この見つかった131件の資料を良く読むと、薬膳の意味は現在使われている薬膳と意味が違うことに気づきました。

 四庫全書に現れた薬膳という言葉の意味は全て、薬と食事を別々に指すというものでした。

 現在使われている薬膳の意味は、薬を入れた食事、或いは薬用効果がある食事です。

 つまり、中国古代の薬膳の意味は、現代の薬膳の意味とは違っていたということです。

 

 清代以後、孫文が建てた中華民国も、中華人民共和国成立した後の20年間にも、現代の意味で薬膳という文字も全く使われていませんでした。

  1980年、四川省の成都市で開催された漢方薬材の展示会と即売大会では、多くの人々が滋養作用がある中薬を買い、滋養薬の販売量が急増しました。このきかげで、中薬薬材の関係者は、中薬を入れた食事、薬酒などのレストラン経営を考え、その年、四川省、成都の薬局同仁堂の支配人であった曽声揚氏は、漢方スタミナ料理店をだし、世界で最初の薬膳料理店を開店しました。ただ、当時もまだ薬膳の名はなく、滋養薬店という名になっていました。

  その後、中国の海外向けの雑誌「人民中国」に同仁堂の滋養薬店を紹介するため、薬膳レストランと名を付けました。

 これは元々の薬膳の意味とは違い、薬を入れた食事ということになりましたが、意外なことに、これは受け入れられました。ここから現代の意味の薬膳という言葉が定着しはじまります。

 おそらく、1981年前後、現代の意味での薬膳という言葉が日本にも伝えられ、受けいれられました。そして、そのまま、薬膳は現在の意味で定着します。

 その後、中国で様々な薬膳の本が出版され、薬膳が盛り上がりました。

  ところで私は、古代中国では、現代の意味の薬膳はどう呼んでいたのかという疑問を持ちました。

 実は中国古代では、食養、食治、食療などの言葉が使われていました。

 食養は食事を通して養生を行うことをさし、食治、食療は共に食事を通して、病気の治療を行う事をさします。これは食事に、漢方薬を入れたり、治療効果がある食材を選べたりすることで、養生或いは治療の目的に達します。

 「四庫全書」でこういった文字を検索すると、食養という言葉は423件あり、最初は中国最古の医学書「黄帝内経・素問」に現れています。

 食治という言葉は678件あり、最初に「史記」に現れていましたが、それは別の意味で使われていました。食治という言葉が正式に中医学の専門用語になるのは、唐代の名医であった孫思ばくが書いた本「備急千金要方」です。孫思ばく氏は本の中に、「食治」という編を設け、食材を野菜、果実、穀物、動物などに分け、その食材の効果や、副作用などを詳しく説明しています。その本の中に、現代の意味での薬膳の処方箋17個が記載されています。また、彼は、患者の病気に、なるべく食べ物を以て治療し、それが効かない場合、初めて薬を使うべきと主張しています。

 食療という言葉は703件あり、唐代の孟せんが作った「食療本草」という本から使われ、中医学の専門用語になりました。

 食養、食治、食療は、いずれも薬用効果がある粥、面、酒、飲料、茶、料理、菓子、デザート、果実や種実などで、養生、治療を目指します。これは現代の薬膳の意味と一致します。

 

次は薬膳の歴史及び発展について話します。

  この話の内容が大変多いため、要点を選んで述べていこうとおもいます。

 中国の最初の薬物本は、「神農本草経」という書物です。

 神農本草経には365種の中薬が記載されており、その中には、食材が数十種含まれています。これが薬食同源の原点と言われています。

  先ほど論じました食養という言葉は、≪黄帝内経≫にすでに現れています。黄帝は神農の次に現れた人物です。≪黄帝内経≫は中国の最初の医学本で、中医学の基盤を定めた本と言われ、食事で養生を行うことが、治療手段の一環として記載されています。

  紀元前22世紀、儀狄という人によってお酒が発明されます。以後、中医学は、酒を百薬の長としました。中華料理にとって酒はなければならない存在です。また、薬材を酒にいれ、養生や滋養用の薬酒を造ったり、酒に食べ物をつけたりするなど多彩なことが行われました。今でもこういうことは多く使われ、薬膳の一部になっています。

  紀元前16世紀、伊いんという料理人が商の王様に気にいられ、なんと首相に抜擢されます。伊いんは料理の達人だけではなく、国もきちんと治めたそうで、さらに、薬材を煎じて、その汁を飲むなどの発明を行いました。これは、今までも使っている中薬の使用方法です。この方法は、後に薬膳スープに発展していきます。伊いんはこれらの功績から、中国の食療の元祖ともいわれています。

  また、4,5百年を経て、周の時代に入ると、「周礼」という史書が現れます。当時、周王朝の宮廷では、医者は料理人の類に帰属していました。当時、医者は食医、疾医、瘍医、獣医に分けられました。食材は薬と同じような作用があるため、食医は食事指導の責任を負っていました。これは8百年間続きます。当時、周の宮廷で料理に関係する人は2400人もいました。調理師は、食医の指示通りに料理を作りました。なぜなら、当時の治療方針は「「黄帝内経」に書かれていたように、「聖人は已病を治さず、未病を治す」ことから、医者によって、やまいは発生する前、予防することを重視していたためです。この未病を治すのに、食事や薬膳が用いられます。

  秦の始皇帝、漢の武帝の時代、彼らはもはや健康を追求するのではなく、不老不死を求め、仙薬を探しはじめていました。皆様ご存じのように、始皇帝は徐福に、東海の島で仙薬をさがせと命じたことは史記にも記載されています。結局これは、徐福が日本に渡ったという伝説につながります。

 漢武帝は道教を信じ、道士を集め、仙人になる丹薬を作らせました。これは仙薬を探すことと道教の煉丹術や養生術の発達につながりました。

 養生術には、中薬を煎じて飲む方法や、滋養作用がある食べ物を食べる方法など、長寿につながる方法が現れました。

 史書の記録によると、秦漢時代に、≪神農黄帝食禁≫という著作が現れ、これは食療専門の最初の著作といわれています。この本は現存していません。しかし、後世の本草の本の中に、≪神農黄帝食禁≫の内容と本の名前が多く引用されており、この本の一部の内容を知ることができます。それによれば、この本には秦漢当時の飲食で注意すべき事が書かれていました。

 (禁忌というのは、ある種の病気の時、食べてはいけない食べ物、薬と一緒に食べてはいけない食べ物、食べ合わせがいけないことなどを指します)

  その後、漢の名医であった張機(仲景)は薬を入れた粥を発明します。これは薬膳粥のさきがけになりました。

張機が作り出した薬膳、ゆり根と卵のスープ、当帰、生薑、羊肉のスープは今日でも、中国人に愛用されています。

  中国の晋代と南北朝に、食養、食療の発展はさらに進みます。晋代の道教の名人葛洪は多くの著書に食療、養生の処方、メニューと食材が記録されています。また、ビタミンBの欠乏による脚気病を直す薬膳を作りだしました。

  唐代に入り、食治、食療は高い水準に発達します。唐代には、薬膳に関する著作が多く現れます。

 唐代では、日本の遣唐使や、鑑真和尚の来日により、多くの中医学の本が日本に渡り、それは、日本独特の漢方医学の成立と発展を促進しました。

 宋代になって、活字印刷が発明されたため、政府と個人の両方で、多くの医学書や薬膳の専門書を出版することができました。例えば、宋の政府が編纂した「聖済総録」には、「食治」門が設けられ、29種の病症に対する、285個の薬膳処方が収録されています。また、陳直著の「奉親養老書」は、老人の病気予防と治療専門書であり、薬膳処方が162個あります。

 当時、粥、羮、スープ、料理、餅、饅頭、酒、麺、飲料などの薬膳の製作方法もありました。

 元代は、薬膳の集大成として「飲膳正要」が製作されました。この本は、元の宮廷の太医であった忽思慧が作りました。元代の皇帝フビライが長寿になったことと対照的に、後の4代の皇帝は皆短命でした。忽思慧は皇帝たちの不摂生を原因と見て、皇帝を間接的にいさめるため、この本を作り献上しました。本の中には、薬膳料理が94種、スープ類が35種、お茶類、饅頭、ワンタン、点心、麺、粥など多数が収録されており、老衰を予防する処方も29個含まれています。また、食材の図像、薬用効果、使用の禁忌なども紹介されています。これは後世の食療法と薬膳の発展に大きな影響を与えています。現在の中国でも、忽思慧の薬膳メニューは多く使われています。

  明代で、当時の中医学はさらに発達して、薬膳に関する研究も促進しました。養生や食療に関する著作が200種近く出版されました。その中で、最も有名なものに、李時珍の「本草綱目」「本草綱目」は本草の書物としても、食療の事もたくさん記録され、薬膳の発展に大きな貢献を果たしました。

  中国で最後の封建王朝だった清代には、皇帝たちは自ら養生を重視し、乾隆帝の時代から、薬膳を宮廷に定着させました。薬膳のおかげで、乾隆帝自身、在位60年、享年88で、中国史上最長寿で、在位が最も長い皇帝になりました。

 悪名高い西太后も、良く自ら薬膳をつくらせ、たべていたそうです。そのため、73歳でなくなるときも、40代の若さを保っていたと言われています。

 清代の養生、食療に関する著作は数百種類あり、中で最も有名なものは、王士雄の「随息居飲食譜」、黄雲鶴の「粥譜」です。「随息居飲食譜」は331種の食療効果がある材料を収録し、養生と食療の両面で論述し、処方も使いやすく、食べやすくなっています。「粥譜」は薬膳粥の専門書です。247種の粥が掲載され、大変実用価値があります。

  近代では、薬膳が大衆に普及し、普通の家庭でも季節によって、薬膳で体を滋養したり、軽い病気を治したりすることができるようになりました。

 近年来、四川省を初め、中国各地で、薬膳のレストランも多く現れています。薬膳に関する著書も山ほど現れ、研究、開発も進んでいます。また、香港、台湾、シンガポール、日本、韓国、タイなど東南アジアの国や地域にも浸透し、これから、さらに欧米諸国にも広がるでしょう。

 

◇この文章は2005年4月16日の<国際薬膳協議会>での講演を整理した物である。

 

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