洛陽市

洛陽は中国七つの古都のひとつである。
紀元前11世紀に作られた古城であり、東周、魏、西晋、北魏、唐、後梁、後唐の都になった。洛邑、九朝古都とも称されている。
洛陽は河南省の北西部にあり、亜熱帯半湿潤季節風気候に属し、
冬は少雨で寒く、春は日照りで砂風が強くて、夏は多雨で暑く、秋は晴れで日照りが多い。
気温は1月-3度〜3度、7月24度〜29度である。

洛陽の白馬寺は中国初めての仏教の寺院であり、中国仏教の元祖である。龍門石窟も仏教文化の名勝である。
また、関林、漢、魏洛陽故城遺跡もある。

龍門石窟

洛陽市の郊外南にある龍門石窟は中国仏教の四大石窟の一つであり、中国の国家文化財である。
2100の洞窟の中には、仏像が10万体、碑刻が3600点、佛塔が40座保存されている。

白馬寺

洛陽市から東側に13キロ離れたところに、「中国第一古刹」と称される白馬寺がある。

中国仏教の宗派が多く、各地には寺が数え切れないほどある。
しかし、白馬寺が中国仏教の発祥地であるということについてはどの宗派も異議はない。
伝説によると、漢代の明帝劉庄はある日金の服を身につけた神様は宮殿を飛ぶ夢を見たという。
大臣達に聞くと、傅毅という大臣は「天竺に道に適う者がおり、佛と曰く。
空を飛び、身に光を付けている。多分この神様でしょう。」と答えた。
明帝はすぐ中郎将秦景等十八人に経を得るめに天竺に派遣した。
秦景らは数年間かかって、天竺に辿りつき、白馬に釈迦の像と「四十二章経」を背負って戻った。
明帝は天竺の僧人に佛院を建てさせ、白馬に経を負う記念のため、佛院に白馬寺と命名した。
寺の玄関前には、白馬の石像は今も立っている。

関林

関林は関帝廟とも呼ばれる。洛陽市の南七キロのところにある。伝説では、ここは三国時代の名将関羽の首が葬された場所である。
古代中国は皇帝の墓は「陵」と呼び、王侯の墓は「冢」と呼び、平民の墓は「墳」と呼ばれていた。
「林」は聖人の墓しか呼ばれない。中国歴史上の聖人は二人しか居ない。
一人は孔子であり、もう一人は関羽である。二人の墓は「孔林」と「関林」と呼ばれている。
関林廟の建物は明、清時代の建築であり、廟内には古木が多く、廟前には関羽を祭るときに芝居を演じるための舞楼(舞台)がある。
関林の建築は帝王の標準によって作られた。廟の玄関前に明代の漢白玉石で彫刻された二匹の獅子が置かれた。
大門に西太後が題した「威揚六合」の額が飾られている。
本堂に関羽の座像があり、前壁に「桃園結義」、「単刀赴会」など物語の壁彫刻がある。
本堂の後ろに関羽の首を葬された高さ10メートルの墓があり、墓前に八角のあずまやがある。
内に4.8メートル高さの碑があり、上に「忠義神武霊佑仁勇威顕関聖大帝林」という字が刻されている。

関林 

 

白馬寺

玄装故郷

玄装像

 

洛陽名物としては牡丹が最も有名である。唐三彩の生産は1500年以上の歴史がある。その他、宮灯、倣青銅器製品が有名。

洛陽牡丹

洛陽の牡丹は天下一といわれている。現在は数百種類が栽培されている。
毎年の4月から5月にかけて、王城公園、牡丹公園には5000本以上の牡丹が花をあでやかさを競う。
なぜ、洛陽にこのように優れた牡丹がたくさんあり、牡丹の都市と言われたのだろうか。
伝説によると、唐の武則天時代には、洛陽には未だ牡丹がなかった。当時の牡丹は全て唐の都の長安に集中していた。
武則天は唐の皇帝を廃位し、自分が即位して女皇帝となり、天下を乗っ取った。
ある年の冬のある日に、雪が止んで、彼女は大臣達と雪景を見ている内に、
突然、花見をしたくなり、詔書を書き、百花を司る百花仙女たちに、すぐ花を咲きように命令した。
彼女は天子であったため、百花仙女は反抗できず、寒さに関わらず百花を咲かせた。
しかし、その中で牡丹仙女だけが、これは常識に反しているので、命令を無視して、牡丹を咲かせなかった。
武則天は大変怒って、御苑の牡丹を焼き壊せと命令した。
また、長安城内に一本の牡丹があることも許さず、全部洛陽へもっていけと命じた。
その時から、天下の牡丹は洛陽に集中し、繁盛が始まった。後に、洛陽は牡丹の代名詞にもなった。

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