殷廃墟


安陽

安陽は中国七つの古都の一つである。
紀元前14世紀ごろ、273年間に渡って殷の都であった。
これは中国歴史上初めて、”都”と文字で記載され、考証もされた物である。
安陽は河南省の北部にあり、亜熱帯半湿潤季節風気候に属し、冬は寒く雨雪が少なく、
春は日照りで風が強くて砂が多く、夏は多雨で暑く、秋は晴れで日照りが多い。
気温は1月-3度〜3度、7月24度〜29度である。

周武王が殷を滅ぼし、安陽が荒れて廃墟になり、殷墟と呼ばれる。
長い間無名のままで過ごした。
1899年、甲骨文が出土され、安陽が一躍脚光を浴びた。
後に、青銅器、と10万枚の甲骨文が出土し、殷王族の墓が発見され、殷商文化が認められた。
古代遺跡は「中国の初めての牢獄」であるユウ里城(周文王はここで拘束され、周易を作り出した)、
殷墟があり、また、二帝陵、文峰塔、唐塔、高閣寺などがある。

殷墟

殷墟は商代の都の遺跡であり、安陽市北西の小屯村にある。

三千三百年の歴史を経、今世紀に大量の甲骨文と青銅器が出土したため、世界で脚光を浴びた。

殷墟の総面積は24平方キロであり、宮殿区、王陵区、一般墓葬区、手工工場区、平民住宅区、奴隷住宅区に分かれている。

1987年、殷墟の宮殿区の遺跡の上に、殷墟博物苑が建てられた。

博物苑は殷時代の宮殿の建築風格を展示すると同時に、庭園の特色も現れている。

キュ里城(中国の初めての牢獄)

キュ里城は安陽市から南に15キロ離れた所である。

紀元前11世紀ごろ、殷の皇帝紂王は酒色におぼれ、無道者であった。

当時の西伯侯姫昌(後に周文王と称される)は紂王に悪行を止めること勧めたため、

紂王の怒りにふれ、キュ里城に拘束された。

また、紂王は姫昌の長男を殺してその肉を切り落とし、肉餅を作り、姫昌に食べさせた。

拘束は七年間にも渡って行われ、やっと釈放された。

キュ里城は中国の歴史上の初めでの牢獄として、記録された。

周文王演易

姫昌は紂王にキュー里城に拘束され、七年間その身に自由はなかった。

その七年間に彼は悲痛と憤怒を抑え、易の研究に没頭した。

最終的に、伏羲の先天八卦に基づいて、六十四卦を変化させ、

また、爻辞と卦辞を加え、千古奇書と言われる「周易」を完成した。

 

岳飛廟

  岳飛は南宋の名将で、金の女真族の侵略を止めた。後に、姦臣に無実の罪をきせられ、殺害された。

岳飛廟は彼を記念するため、明代に建てられた物である。

岳飛廟は90数軒の建物で、4300平米の面積であり、ほとんど完璧に保存された古代建築群である。

主な建築は正殿、精忠坊、施全祠、碑林、粛瞻亭、観光亭、御碑亭、賢母祠などがある。

正殿は岳飛廟の主体建築であり、門上に光緒皇帝と西太后が書いた「百戦神威」「忠霊未泯」の額が

飾られている。殿内に、岳飛の座像があり、座像の上方に岳飛の親書「還我河山」の額が飾られている。

廟内の碑林に陳列された明、清両代の皇帝、官員、文人学士が題した詩、詞、賦等200通あり、

そのなかでも、明の皇帝朱元璋、清の皇帝乾隆及び徐達、董其昌、海瑞などの碑刻は、

書道芸術と史学研究の重要な史料である。

文峰塔

文峰塔は安陽市古城内の北西側にあり、高さ38.65メートルで、円周40メートルである。

塔は旧彰徳府文廟の東北にあり、地元の文風の象徴として、文峰塔とも称される。

文峰塔は五代に建てられ、千年以上の歴史があり、今日まで依然雄大壮観である。

文峰塔は独特の建築風格を持ち、傘の形状で、下は小さく、上が大きくなっている。

塔は八角形の五階建てで、毎階の周辺に円形の窓がある。

塔の構造は木とかわらであり、瓦を積み重ね築きあげたものである。

塔の八面の壁に、佛教関係の物語により作られた絵の瓦が飾られている。

 

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